明るい社会づくり運動 庭野日敬師

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管理者の挨拶(INDEX)
明るい社会づくりの為に!
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庭野日敬師プロフィール
【昭和44年4月】
 四国大会の講演
 (仏教の教えを生活に生かそう)
昭和44年9月】
 西中国推進大会
 (物心一如)
【昭和51年】
 全国総会の挨拶
 (英知と共に)
【昭和54年】
 全国会長会の挨拶
 (宗旨、宗派を乗りこえていく努力を)
【発足25周年】
 発足25周年を迎えての
 インタビュー
 (思いやりに満ちた心豊かな社会
著書「この道」
 一仏乗の世界をめざして
【全国協議会第10回総会】
  での挨拶から
  拓塾への期待と激励
庭野日敬師の目ざす
 「明るい社会づくり運動」


明るい社会づくり運動の
 目指す社会とは


庭野日敬師の世界平和論

リーダーの条件

 元明るい社会づくり運動
 拓塾塾長 佐藤秀裕氏
明るい社会づくり運動
  三十周年にあたって


 前明るい社会づくり運動
 拓塾長 坂本尭氏
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明るい社会づくり運動
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【NPO法人 明るい社会づくり運動の会 創立30周年の集い】 

平成22年1月会報より
明るい社会づくり運動三十周年にあたって
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NPO法人 明るい社会づくり運動の会
理事長 坂本尭氏
1、はじめに・・・・・・

明るい社会づくり運動の会が始まってから40年の長い時が過ぎた。
私がこの運動に不思議なご縁で加わったのはその初めの頃だった。
昭和43年の春、10年間の欧米留学から帰国して、それまでの医学、経済学、哲学,神学、人間学などの永い研究生活を終わり、大学の教壇に立つことになった。そして研究所をつくり所長の仕事をしていると、見知らぬ方の訪問を受けた。中央学術研究所からであった。用件を聞くと、私の研究所と社会のために共に働きたいとの事であった。これが後年、明るい社会づくり運動の会に発展していくとはその時は知る由もなかった。
こうして、この会の推進者となる人々との縁が結ばれた。庭野日敏、飯坂良明、北貢一、佐藤秀裕、井原美代子、酒井教雄などの方々である。昭和44年、明るい社会づくり運動の会の名前で市民運動、国民運動が明るい社会建設のために日本の各地で草の根運動として始まった。
その創始者は庭野日敬先生である。先生は各地で同志の人を集め。講演会を開き、この運動を広めていった。この流れの中で我が明るい社会づくり運動の会は誕生した。本会の最初の事務局長であった理事の佐藤秀裕氏は、私の最初の中央学術研究所の西洋哲学ゼミの教え子の一人である。彼は我が家の近くに住み、私を明るい社会づくり運動の会に導いた。
彼は実に聡明で実行力に富み、明るい社会づくり運動の真の意義を悟り、その発展と実現に精魂を傾けていた。私は、この30周年記念に当たりその精神的指導者としての役割をお願いしていた。ところが実に残念なことに10月21日突然逝去された。痛恨の極みである。
さて、本会の30周年記念に当たり、この運動について私の所信を述べて私の挨拶の言葉としたい。・・・・・

2、明るい社会づくり運動の会とはなにか。・・・・

1965年(昭和40年)9月、イタリアのローマでは第二バチカン公会議が開かれていた。庭野日敬先生は特別招待者として出席され、教皇パウロ六世に個別謁見し、霊感を受け、この運動の悟りを開かれた。
当時、世界は鉄のカーテンによって分裂していた。宗教界はキリスト教、ユダヤ、イスラム、ヒンズー、仏教など多くの宗派に分裂し、その上、自由主義国家陣営とソ連、′中国、キューバなど共産主義陣営とがイデオロギーで対立し、それから惹き起こされた多くの戦争と第三次世界大戦の原子戦争の予感によって、人類滅亡の暗い心理に覆われていた。
第二バチカン公会議の創始者聖者ヨハネ二十三世教皇はこの人類の危機を悟り、宗教家として働くばかりでなく、バチカン市国の首長という政治家として世界の平和社会の建設に平和のイデオロギー(カトリシズム) を広めていた。カトリック教会は宗教と政治の世界双方に責任をもって西洋の世界を築いてきた。その歴史の中にこの公会議は立っていた。
庭野日敬先生はこの時、不思議な光りを受け人類社会の救いに立ち上がった。それまで、在家仏教立正佼成会の開祖として500万以上の信徒を指導した人が始めて世界の表舞台に上がり、数十億の、多くの尊いしかも危機に瀕した命の存在を実感したのである。
この公会議の最大の目的は、宗派の対立と自由主義と共産主義のイデオロギー対立から起る原子戦争をさけることであった。この危機を察知し、直ちに行動をとったのは庭野日敬先生であった。先生は人類の一人として、没我奉公の精神でこの運動を始めた。自己の教団を超越して、人類全体を一心同体とし、世界を戦争から救い平和にする人類精神改革の新運動を始めたのである。これが後に明るい社会づくり連動の会と呼ばれることとなった。
1966年(41年)、第二バチカン公会議から帰国するや、還暦を迎え、英知に満たされた先生は、自分の思想を一冊の本にまとめて出版した.『人間への復帰』である。本書は先生の魂の叫びである。2500年前、ソクラテスが良心の声に適って無私、無欲の精神で教えたように、庭野日敬先生はこの本で教えている。はしがきに告白されているように、このときの先生の苦心惨憺はソクラテスの苦しみのように大きかった。滅亡の危険も知らずに、ただ物質的豊かさのみを求めて争いに狂奔する人間の心に、あるべき人の心を教える深遠な哲学書である。
あらゆる宗教、イデオロギー、人種、国籍、階級、貧富などの違いを超越して、換言すれば、忘れ無視して、全ての人が一つの心になり、人道の大義に生きることを教える庭野日敬哲学である。人間とはなにか、苦とはなにか、幸福の処方、人と人との間、創造しつつ調和しつつ、知恵・愛・自由など人間哲学、社会哲学を教えるものであり、そこには、明るい社会づくり運動の会の本義とそれを実現するための基本的指針が書かれている。これは宗派の宣伝拡大の宗教活動とは次元をことにする社会哲学の書である。・・・

3、明るい社会づくり運動の会の歴史・・・・・・・

1969年、(昭和44年)明るい社会づくり運動の会の創始者である庭野日敬先生は、高松市で最初の講演で会の活動を始めた。この講演は心と道徳の再建を教えている。以後日本の各地を訪れ同志を募り、草の根運動の多くの会を創立した。佐藤秀裕さんは事務局で、私は中央学術研究所の講師として協力した。
しかし、立正佼成会開祖のこの社会運動の哲学は本来問題抱えていた。カトリックなどの宗教史に明らかなように、宗教教団はしばしば勢力拡大のために政治権力や社会哲学を利用した。こうして、人は宗教家の社会哲学に不信の眼を向けるのである。たとえそれが、教団の利害や布教の為で無いと言っても、他の教団と世間一般は信じないことが多い。第二バチカン公会議が人類の危機に際し敢えて政治やイデオロギーに働きかけたように、庭野日敬先生も敢えて同じ行動を執ったのである。
この行動は、立正佼成会の内でも外でも正しく理解されることは難しく、教団の布教活動の一つとしてしか理解されなかったのは実に残念なことであった。
『人間への復帰』は放置され峡にまみれ、その哲学は宝の持ち腐れとなった。明るい社会づくり運動の会は哲学の力を失い、市民の心に広がらないまま、組織の無理な拡大とこの運動の哲学に無縁な有名人の役員の会議と莫大な費用のイベントや大会の運営に財力を費消し、自立性を失い、立正佼成会という宗教教団に依存度をたかめ、純粋でひも付きでない市民運動、国民運動という明るい社会づくり運動の会の創始者の悲願は成就しなかった。
今も危機に立つ人類の運命を思うとき、庭野日敬先生の霊はいかにお考えになっているであろうか。宗教家で庭野目敬先生のような無私無欲、人類愛の思想家は人類史に稀である。
もしこれが人類に知られたら立正佼成会は人類から広く受け入れられるであろう。拓塾が設立され佐藤秀裕、坂本尭が塾長となり、明るい社会づくり運動の会の社会哲学を探求し、普及に努力したにもかかわらず、明るい社会づくり運動の会が宗派布教の運動でない市民運動、国民運動であることを明確する理論が完成せず、普及しないで休塾したことは遺憾である。近視眼的人々は拓塾の活動を軽視し、それを維持してきた創立以来の明るい社会づくり運動の会を解散させた。
こうして、一般市民の会員は次第に失望し、退会していく状況となった。こうして、庭野日敬先生の人類救済の新運動の火は消えてしまったようにさえ見える。
他方、人類社会は民族戦争、凶悪犯罪、いじめ、自殺、貧民の増などによって明るい社会づくり運動の世界的発展を求めている。本会の2007年の会報に詳しく報じられているように、1978年、東京都大田区に庭野日敬先生がおいでになり、ここでも本運動の創立が始まり準備委員会がつくられた。
1978年11月25日、我が明るい社会づくり運動の会が創立され、初代会長に世界の教育学者平塚益徳先生が就任され、その運動指針として社会教育、家庭教育の道が決定された。
その後、1981年(昭和56年)平塚会長の逝去にともない2代目会長に坂本尭副会長が就任し、その運動法針を継承することになった。1999年、本会は特定非営利法人として認証された。
また、2003年、本会の活動を広域化して発展していくために、「大田区」を名称からはずして『明るい社会づくり運動の会』と定款変更を行った。これで、どの人でも、どの地域の人でも、我が明るい社会づくり運動の会に正会員として入会できることとなった。
2007年、本会の歴史を明確にするための会報が広報担当理事の佐藤秀裕氏の努力で出版された。本会の精神、歴史、活動などについて明確に書かれている。是非、今回の30周年記念に当たり、あらためてお読み頂き、氏の功績に感謝するとともに、その冥福をお祈りいただきたい。
同時に会報に載っている創立以来の会の役員職員の方々を始め、本会の歴史を造った全ての、会長、副会長、理事、地区委員長、事務局長、役員、会員の皆様に心からの感謝を捧げ、お亡くなりになった方々の冥福を心からお祈りするものである。・・・・・・・・・・

4、おわりに・・・・・・

本会創立30周年記念に当たり、この記念行事に尽力して頂いた諸会員の方々に心から感謝する次第である。
特に名誉理事長醍醐幸右衛門先生のこれまでのご尽力に心からの感謝を表したい。先生の創立以来の奉仕と援助があって本会はこの30周年を迎えることが出来たと思う。先生もご高齢を迎えられた。我々会員は先生のご健康を祈念し、本会会報2007年9月号の先生の『私どもが今日まで大田区ですすめてきた運動は、特定の宗派 一宗一派、特定の政党の立場や意識を超えて、思いやりの心を養い、奉仕の精神の大切さを訴えてきたと思っています。
私は、市民運動として、あらゆる立場の人も会員となって協力いただけるよう、頑張ってきたことを自負しています。この基本姿勢を崩さず、やり甲斐と希望をもって、これから若い人たちが引き継いでいってもらいたいと願っています。』お言葉を心に刻みたい。
特に、私は明るい社会づくり運動の会の精神を堅持して、創始者庭野日敬先生と初代会長平塚益徳先生から頂いた励ましの握手を忘れずに命のある限り、会員皆様と共にこの運動の本義を守り、その大道を歩んでいくことを誓って、挨拶の結びとしたい。

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坂本 尭 氏 プロフィール
【略歴】坂本 尭(さかもと たかし) ニコラウス・クザーヌスの研究家
  1927年兵庫県生まれ。上智大学文学部哲学科卒業、同大学院修了。
  59年〜68年、西ドイツを中心としてヨーロッパ各地に留学。
  国立ケルン大学哲学博士、Ph.D取得。上智大学文学部助教授、
  独協医科大学教授を経て、聖マリアンナ医科大学名誉教授 等

  前 明るい社会づくり運動全国拓塾 塾 長
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今回の原稿は大田区にあります、「NPO法人明るい社会づくり運動の会」の三十周年の集いに参加をさせていただきました時に、配られた会報に掲載された内容を、坂本尭理事長のご了解をいただき掲載をさせていただきました。坂本尭理事長の、明るい社会づくり運動に対する情熱が伝わるのと同時に、とても大事な事を述べていらっしゃると思います。

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