(昭和44年4月27日 香川県高松市 於)
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「明るい社会づくり運動四国大会」の庭野会長講演
仏教の教えを生活に生かそう
心の成長に真の幸福(人間のもつ強さをみなおして)
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物質には恵まれているが
今日は「明るい社会づくり推進大会」にお招きいただき、「物の世界と心の世界」とういう題でお話をせよとの事ですが、私の体験の一端を申し上げて、お許しをいただきたいと思います。いま社会をみますと、物質には大変恵まれていて、なに不自由ないといえます。消費経済も戦前に比べ、長足の成長をとげました。
炊事や洗濯もスイッチひとつで機械がやってくれますし、夏にしか食べれなかった物が、冬の食膳のあがります。部屋を一日中同じ温度に保つ事すら可能になりました。では、このような物質的にも恵まれてきてみんなが幸福になったかというと、そうともいきません。そこに、現代人が直面している大きな課題があるわけです。 |
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科学文明の進歩によって、私どもはこの地球まで客観的にながめられるようになりました。「地球は青かった。」と、あの名文句を残したソ連のガガリーン。そして、アポロ八号の搭乗員達は「地球はすはらしい。ほれぼれとするような感じだ。しかし、月は一面灰色の物体″で、人間を寄せつけようとしない」その印象を失望で語っています。地球から眺めた月がロマンチックで詩情たっぷりであっただけに、味わった失望もまた大きかったのでしょう。
人はだれしも未知の世界や、物に強いあこがれと期待をもっています。昨今が外国旅行ブームといわれるのも一因はそこにあるといえます。しかし、それだけに裏をかえせば、現実の世界、とくに自分の足もとには日ごろから不満や失望が渦巻いているともいえましょう。少なくとも自分の住んでいるところは過少に評価しがちです。
ですから、毎日を不平タラタラで送り、チャンスがあれば現実から逃避しょうとたくらむ。これではせっかくの物質文明の発展も意味をなしえないことになります。真のしあわせを亭受するためには、物″をつくり出し自由自在にこれを駆使する人間の心、この心をいかに成長させるかが大事な要件といえます。
それにはまず、自分の心に内に持っているよさに気づかねばなりません。私がいつも外国に旅行していつも思う事は、自分が日本人の生まれて良かったという喜び、日本という国を大切にしたいという愛国の感情です。これは外国の方の日本人に対するていちょうな態度や評価に接して、逆に教わったようなものでした。
古い話で恐縮ですが、私が昭和33年、初めて南北アメリカを訪ねたときの事です。内心、日本は戦争は負けたという気持ちもあって、私は多少精神的に負い目を感じておりました。ところがどうでしょう。行く先々で彼らは「神国日本」とたたえるのです。あのちっぽけな島国、日本が、よく3年8ヶ月も果敢に戦った、と。中には「日本は負けたのではない。自らやめたのだ。」という日本びいきの南米人もおりました。なるほど、そうゆう考え方もあったのかと思った程であったのですが、ブラジルに行ってその考え方が得心できました。
ブラジルに移民した日本人が現地の開発に大いに貢献しているのです。五十日ほどブラジルに滞在し、その間、あっちこっちの施設や工場を見学して回りましたが、日本人がいたるところで活躍していました。
財政の根源の元になっているあのコーヒー畑も基礎づくりは日本人がやり遂げたといいます。ゴムもやはり天然のものにたよっていたものを日本人が栽培に成功したのだそうです。うっそうと生い繁った密林を汗みづくで切り開き、つぎつぎと畑にしていく日本人の根気のよさと努力が、きっと驚きの目でみられたに違いありません。私達見学者のために最高の便宜をはかり、とりあつかいがていちょうをきわめたのも、こうした日本人全般に対する尊敬があったからだと思います。
日本人の持っているよさを再識する一方、学んだ点も少なくありませんでした。外国人は実によく秩序をよく守ります。バスがこずに人の列が何百メートルにもおよぼうとさわぎたてるものはおりません。まして、割り込むなど無想だに出来ない事です。よく聞くたとえですが、水飲み場のコップを洗って使うのが日本人、使ったあとで洗っておくのが欧米人。これほどの違いがあるように思います。
では、こうした違いがどこからでてくるのか。私は欧米人が小さい時から宗教的情操のなかで育っているからだと思わざるをえません。
キリストの教えは献身的な信徒によってどんな奥地にでも浸透しています。だとえばジャングルを切り開いて数戸の部落が出来る。そうするとそこには必ず布教師が住みついて、子供達の教育を始めるのです。こうしてキリストの教えのもとに大きくなった子供達は、自然のうちに神を知り畏敬の念をはらうようになるといえましょう。人間がいかに万物の霊長といえ、心の内におそれるものをもつということは、大事な事です。
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仏教は寛容ですべてを生かす |
ところでこれほど大切な宗教的情操も、日本ではまだまだ軽視されている向きがあります。理由のひとつには、宗教界が、その本質において統一されていないという点にも問題がありましょう。現に、日本には実に十八万の宗教団体があります。文部省に届け出がされているものだけでも三百七十五団体といいます。これらの宗教団体がそれぞれの主旨、宗派を標ぼうし、教義を唱え、宗我にこだわったとすれば、これは混乱を招くだけだといえます。ですから、日本人の一般的傾向として、宗教の必要性は認める。だが自分は関心がない、というのも、いいかえれば「宗教は真に宗教はの役割りを果たしていないではないか。」というおしかりの声だとき聞かせていただいているわけです。
私は、現在、日宗連理事長というお役をちょうだい致しました。これは宗教界の使い走りの役です。くちはばったいことですが、 − やがては日本の宗教界が大同団結し、その本義において、一つになり得る − という信念と願いをこめて微力をかたむけているしだいです。
私は元来、禅宗の檀徒ですが、今は法華経の一行者だといえます。こういうとあるいは不まじめとおしかりをうけるかもしれません。しかし、もともと釈尊の教えは、あれはいい、これはダメだと固定した教えではないのです。とくに法華経の教えは排他的なものがありません。いうならば寛容の教えであり、あらゆるものを認め、尊重し、生かそうというのがその精神です。したがって自分を認めると同じように他を認めるというのが法華経の基本的は考えだといえましょう。最近、北朝鮮と米国の間が問題になっておりますが、この場合も双方が相手を認めないところに端を発しています。米国に北朝鮮を信じる気持ちがあれば、危険をおかしてまでの空中偵察は不用でした。そうなれば飛行機も撃ち落とされることはなかったのでしょう。現実にはこう割り切れない問題でしょうが、とにかく心より物に比重がかかっているのが現代だといえます。つまりは物質偏重、かたわの時代です。
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本腰を入れ宗教的情操を育てよう |
したがってこうしたときに、「明るい社会づくり」を進めるにはどうすればよいか。私は宗教家として、仏教の教えを生活の中に生かすことを提唱します。宗教的な情操を家庭教育、学校教育の中で育ててほしいのです。人が喜んでいるときにはともに喜び、悲しいでいるときにはともに悲しむ。人の役に立つことは喜んでやる。そんな人づくりが進めばどんなにかこの社会が明るくなる事でしょう。
日本の経済成長が世界の驚異のマトということもすばらしことです。こうした勤勉な国民気質も含め、日本ほど条件のそろった国はないといえましょう。少なくてもおかあさん方がこの仏教を実生活に生かすならば、盤石の家庭が築かれるのではないかと、確信するしだいです。
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昭和44年5月9日 佼成新聞掲載 |