 |
昭和44年9月21日「明るい社会づくり推進西中国大会」防府公会堂
|
戦後の日本は「奇跡の繁栄」といわれるくらいに工業国としても急速な発展を遂げました。いまや国民総生産は自由諸国の中では世界第二位。大型消費時代ともいわれ、電器製品などは修理するより使い捨ての風潮が強くなっております。昭和元禄ということばがありますが、着るもの、食べるもの、すべて当時の大名をしのぐ今日のいきおいだといえましょう。
そこで今日のこうした風潮に中国の古いことばを引用すれば、まことにおかしな事になります。「衣食たりて礼節を知る」。さて、どうでしょう。おそらく礼節が守られているという答えは少ないのではないかと思います。長幼を大事にする美風も、師に対する敬愛の念も、ひたいに汗する労働の尊さも……。日本人が持つこうした精神的な背景が、私には軽く見られ、ゆがんできたように思えてならないのです。
では、いつの間にこうなったのでしょうか。どうあるのが本来の姿なのでしょうか。
私は仏教徒ですので、仏教的な見方からこうした問題を次に考えてみたいと
思います。
まず言えることは、今日の教育の根本が、物質に対する考え方、いわゆる唯物思想的なものに片寄ってはいないかという危供です。早い話、幸福とはなんでしょう。いつも借金取りに追われている人は、金持ちになることだと答えるかもしれません。同じように病弱な人はせめて健康なからだをといい、若い男女は恋人がほしいと訴えるかもしれません。なるほど求める幸福はそれぞれ違います。が、そこに共通したものが見られないでしょうか。つまり、金、からだ、恋人……すべが物中心であり、いずれも欲を出発点とした幸福であるということです。よしんばお金に困っていた人が大金を得たとしましょう。それだけでその人達は幸福だと思うでしょうか。金持ちになれば次には名誉や地位を得たいと思うでしょうし、恋人とデートをするにはお金が欲しいと思うはずです。物が中心であるかぎり欲望はつのります。この点について釈尊はまことにあっさりと論破されています。
つまり「諸苦ノ所因ハ食欲コレ本ナリ」人類の苦しみの原因はすべてむさぼる欲にあるとおっしゃっているのです。実にわかりやすく、かつ手きびしいではありませんか。
ではどうすればいいのかといいますと、これまた今日の社会が端的に回答を
導いてくれるように思います。すなわち、すべて物が先行し心が忘れられている現実です。物″と心≠車の両輪にたとえるならば、物″の車輪が大きすぎて、まっすぐ進もうとしても一カ所をグルグルまわっているのに似ています。社会の混乱も退廃や争いも、この堂々巡りを繰り返す車輌のもとで起こっているといえる
でしょう。
ですから、人間らしい本来の軌道を進もうとするならば、心″の車輪をひとまわりもふたまわりも大きくしなければなりません。釈尊が「物心一如」といわれたゆえんを、私どもはいま一度かみしめてみる必要があるように思うのです。
ついでに申しますと、釈尊はこの混とんとした現代の世相を予言されております。
入滅後、第五の五百歳というのですからいまがちょうどそのときにあたります。
その時代になると知識が進むにつれて人類は利己主義となり、殺伐たる社会となる。そのときにこそこの仏教の法門が強く望まれるであろう、というのです。きわめて楽観されているわけですが、私にはその論拠がうなずけるように思います。それは 「人間は平等に仏性を持っている。かならず仏になれるのだ」と説かれた一切衆生悉有仏性″その仏性の輝きは自分の死後も決しておとろえないと確信されていたからにほかなりません。なるほど、きょう善行賞を受けられた方がたを含め、社会の乱れに気づき、社会を明るくしようと決意された仏子の集まりはこんなにも盛大です。それだけに、この生活の実践的な教えである仏教理念が、さらに加われば、どんなに心強いことでしょうか。
|
講演要旨1970年版『佼成年鑑』より −
昭和44年9月21日「明るい社会づくり推進西中国大会」防府公会堂 |
|
|